東光寺と神呪寺と鷲林寺

西宮市内には鷲林寺とほぼ同時期に建立されたお寺が二ケ寺あります。東光寺(とうこうじ)と神呪寺(かんのうじ)です。東光寺は通称"門戸厄神"(もんどやくじん)と呼ばれ、神呪寺は通称 "甲山大師"(かぶとやまだいし) と呼ばれています。二ケ寺とも西宮市を代表する大きなお寺です。この東光寺と神呪寺が鷲林寺と大きな関わりを持ったお寺であるという学説があります。

まず東光寺は、人皇52代嵯峨天皇(さがてんのう))の41才の御厄年の時、厄除け祈願として弘法大師に勅して、厄神明王を三体刻まれそのうち一体を東光寺に祭ったという寺伝があります。その後、" 厄神さん" として人々に信仰されるようになりました。ところで" 東光寺 " という名前はどこから由来するかといいますと、寺伝では東の方角を守護する薬師如来を本尊とするので東光寺というと伝えられています。もうひとつは、" 東に光る寺 " すなわち東光寺の西に対象物があるという意味からそう呼ぶという説があります。その対象物が神呪寺であるといわれております。そしてもうひとつ、門戸厄神の門戸(もんど)は門戸(もんこ)と読みます。いわゆる何かの入口という意味なのです。神呪寺に詣でるで前に大門をくぐり、そこで厄除けの祈願をする習慣があったというのです。

また、神呪寺は人皇53代淳和天皇(じゅんなてんのう)のお妃・如意尼公(にょいにこう)の開基と伝えます。如意尼公は弘法大師に請願して如意輪観音を刻み、本尊とされます。寺を建立中に西の方角の鷲林寺から「ソラン神」(そらんじん)という大鷲が飛んできて如意尼公の邪魔をしました。「ソラン神」とは、この辺りを支配していた悪い心を持った神で、大きな鷲の姿をしていたということです。ここに寺ができて仏教という良い教えが広まれば、人間が良い心を起こして自分のいうことを聞かなくなってしまうということから神呪寺の建立の邪魔をしたのです。弘法大師は呪文を唱えてその大鷲を封じ込め、六甲山の中腹に祭ったといわれます。

鷲林寺にも同じような逸話が伝わっています。また、鷲林寺は全盛期には70町歩という広大な寺領を持っていたということで、一時は76坊もの子院が建ち並んでいたといいます。それは遥か西宮の浜まで広がっていたということで、「西の高野山」との別名があったそうです。

東光寺と神呪寺と鷲林寺・・・この3つの寺は同年代に建立されています。また、それぞれの寺の歴史をあわせますと東光寺で厄除けの祈願をして神呪寺に詣でて、鷲林寺は奥の院的存在であったという可能性が考えられるそうです。歴史のロマンのひとつとして伝わるおはなしです。
東光寺と神呪寺と鷲林寺 ほぼ直線でむすばれています。

                                 

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